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令和5年 慶寿会6月の催し

 

★6月 8日(第2木曜日) 慶寿会コーラス会  午後1時20分~2時30分

 1階 デイケア室 歌唱指導及びピアノ伴奏 鵜飼文子先生

★6月15日(第3木曜日) フラワーデザインの会  11時~

    1階 リハビリ室   講師   田鹿由美子先生

★6月  日(第3土曜日) 洋画研究会  

お休みです

★6月22日(第4木曜日) 書道教室   午後1時~随時

    1階リハ室   講師 田村節子先生  

     ㊟新聞紙・拭く物(雑巾、ペーパータオル等)御持参下さい

★ 6月26日(第4月曜日)楽しいパン作りの会 午後1時~随時

2階  調理室    講師  田村節子先生

 

ようやく体調が安定し、もう少し休みたいなと思っているうちに日が過ぎて行きます。どの催しも体力が要るものではないので何とかこなしていますが、いつまで出来るかとかいう自問の声が聞こえます。然し子供達はやっているからいいんだと口を揃えてはげまします。もっともこれは4,5年前の話で今は何も言いません。100才を越えた父親に何も言うことはないようです。


コロナが終わったので月末には茅ヶ崎の料亭でカトレアホームの理事会があり、千葉も同様の場所を探しているようですから楽しみです。何れも経営が順調であり、次代を担う者には更なる飛躍を願っています。組織を運営するには多くの経験が必要であり、人と組織に深い思いやりがないと円滑には動きません。


有能な部下を見付けるよりは,共に喜び、共に考える職員を見出すことが大切です。組織は人の能力をバランスよく配置することで保たれて居り、指導者には見出す能力が求められています。然し始めから能力ある人を見出すのは難しいので時間をかけて育てるという方が現実的です。遠い目、広い視野が必要なのです。


一般には指導者は自然に生まれて来ます。学校で多くのスポーツ競技を経験させるのは体力だけではなく、指導力のある人材を見出す手段でもあるのです。指導者には技術、統率力の外に人望が求められます。三拍子揃ったチームは実力以上を発揮出来るからです。


私も学生時代に没頭したバスケットボールと言う競技は最も分かりやすい人生の縮図を示していました。ガードは主として守り、フォワードとセンターは主として攻めが役目ですが守りの時は全員で球の取得に専念したから約3年間は勉強そっちのけでした。噂によると2年生の学期末には級落会議に名が上ったそうです。試験を受けるときはすべて一夜づけで過ごして来たので却って集中力は養成されたのかも知れません。


高校の終わりには戦争が始まり、大学4年は戦争まっただ中でしたが,京都は空襲も無く,授業の停止もなく、休講もなく、実習も計画通り行われたので極めて充実した学生生活を送ることが出来ました。問題は食事ですが学食の停止もなく、下宿生活に移ってからは約2ヶ月に一回帰省してお米を持ち帰ることが出来たので、ひもじい思いはしませんでした。確かに物資は乏しかったのですが、京都では休止することはなく、乏しいながらそれなりの食べ物を出す店も残っていました。然しそれはめぐまれた学生の話で 一般市民の食事は明らかに乏しくなり、外来患者の診断の多くが戦時栄養失調症でしたから食料が少ない方が多かったのは事実です。


卒業と同時に終戦となり、橫浜に帰って、橫浜市立医学専門学校の助手となったので兵役は免れたのですが、当時の内科教室は自由度が高く,自分が考えた論文を作製し,高血圧症の臨床的並びに実験的の研究(高血圧症患者の自律神経緊張状態)を因子分析により結論づけた論文を作製し、当時横浜医大には学位審査権がなかったので教授を通じて日本大学に提出して学位を得ました。自分でもよくわからなかった因子分析という数学を教授達はわかったのかなと今でも考えます。


学位を得た後、2年程して、関東学院の真下にある南区西中町にある内科医院で女医さんが疲れたので貸したいと云う話が医局に来ました。家主は東大助手の方で一度もお会いしませんでしたが、診察室とそれにつながる屋根裏部屋をお借りして内科・循環器科診療所を開設しました。開設直後から市大の頃の患者さんがどっと押し寄せて下さったので開業1カ月から黒字でした。


1年程たった頃、長いお付き合いの患者さんが、中区末吉町3丁目の町内会館が家主とトラブっているので、そこに移転したらと教えてくれました。大岡川に沿った末吉橋のたもとでとてもわかり易い場所でしたので1年でそこを改装して移転しました。待合室が狭いので時々患者さんは道路にあふれ、その後昭和32年に南区西中町の阪東橋駅より徒歩4分の処に開業1年後に中区末吉町に移転、更に2年後に同所に細長い5階建、18人収容可能な有床診療所を開設その間に老人クラブ慶寿会を立ち上げたのは周知の通りです。


平成元年12月笠間に帰ってディケアクリニック小笹医院を開設、19ベットの有床診療所となり平成21年4月病床閉鎖し、令和2年秀樹先生と交代しました。その後は現在の通り、リハビリ室の一角に机のみ構えて御相談に応じているのは御存知の通りです。秀樹先生の診療に厚みを増す立場だと考えて下されば幸甚です。


私はまだ体力、思考力が衰えて居りませんから先輩の日野原先生の年(106歳)迄は現在を維持して皆さんのお役に立ちたいと考えて居ります。


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